『今回のところは他社さんの商品にさせて下さい、』
今日も彼はそう言われて客先を後にする。
そして、もうすっかり暗くなったオフィス街を重たそうなビジネススーツを着て、とぼとぼ歩きながら
『はぁー。』と、1日我慢していたため息をこぼす。
彼がついたため息は、それはそれは深く、見ているだけでネガティブな感情に引きずり込まれそうな程だった。
こんなに深いため息をつきながら歩いていても、道行く人は誰も何も反応しない。
入社して5年間。
彼なりに努力はした。
なんとかして、『売ってやろう!』と何百冊とビジネス書を読んで、実際にやってみてを繰り返し、上司のアドバイスも一つ残らず実践した。
新規訪問の数も他の営業マンより多いし、事務作業だって速くなったから他に劣ってはいない。
でも売れない。
数ヶ月のスランプとかいうもんじゃない。
5年間ずっと売れない。
『もう無理だ。』
彼はその日の帰り道、退職を決めた。
その日彼は1人で、たらふく飲んだ。
普段はほとんど行かない飲み屋街に繰り出し、店を転々と飲み漁っていた。
酔いが完全に回って、足がいうことを聞いてくれなくなった頃。
ふと見上げると、そこには人が立っていた。
『飲んで行かない?』
顔や、声のトーンすらも認識できてはいなかったが、その言葉だけは聞こえて、腕時計を確認して返事をした。
『もちろんいくよ』
ついていくと、そこは怪しげな紫色の光を放っていたが、中はお洒落なバーだった。
どうやら、時間も遅いし客が彼以外いないようだ。
さっきの人がゴリゴリの腕でシェイカーを振っている。
すでにまあまあ酔っていたが、それからまた、しこたま飲んだ。
そして、そこで、今まで話せなかった『会社を辞める』ということと、『不安』や『悩み』を目の前の人に洗いざらい吐き出した。
すると、その人は低く図太い声できっぱり言った。
『営業に大事なのは『第一印象』でどれだけ覚えてもらえるか、ということ。
君の見た目にはインパクトが足りない。
君には営業は向いてないかもね。』
と。
彼は一瞬ハッとした顔をして、それから、その人に夜が明けるまで話を聞いてもらっていた。
あれから、1年経った。
彼は会社を続けていた。
そしてなんと彼は会社でNo.1の売り上げを記録していた。
話し方も変えていないし、勉強して商品知識を増やした訳でもない。
ビジネス書だってあれから一冊も読んでいない。
ただ彼は、紛れもなくぶっちぎりの1位だった。
『ハッハッハ!面白いね君!
他社の営業マンも来てるけど、君の見た目のインパクトには絶対勝てないよ!
ぜひ、君のところの商品を買いたいから発注しておいてくれ!』
今日も彼はそう言われて客先を後にする。
そして、もうすっかり暗くなったオフィス街を寒そうなミニスカートを着て、胸を張って歩きながら
『よし!』と、まだまだこれからだと言わんばかりの気合いをこぼす。
彼が言った『よし!』は、それはそれは頼もしく、見ているだけでポジティブな感情に引きずり込まれそうな程だった。
そんなに大きな声で言っている訳ではないのに、道行く人はみんな彼にくぎ付けです。
彼は真っ赤な口紅を塗りなおして、長い髪をクシでときながら次の営業先へ向かっています。